なんでこうなるの・・・

久しぶりに大阪出張した。
実のところあまり気の進まない商談。
こういうときは何かとうまくいかないことが多い。
この間から右足の親指の付け根あたりが赤く腫れてとても痛い。
歩くのがとても大変。
仕事だから少々足が痛くてもそんなこと言ってられない。
頑張って出かける。
車で駅まで行く間にまず第一の奇妙が起きた。
右に曲がる交差点を過ぎたところで前の左車線を走る軽トラが右のウインカーをそのまま点滅させている。
なんだこのおじさんは・・。
年取るとこういうことがよくあるんだよな・・・。
延々一キロ、私は軽トラを気にしながら追い抜いた。
見るとそれなりの年寄り・・・。
やっぱりこういう人は良く忘れるんだよな。
ぶつぶつ言いながらその先の交差点で私はまた右に曲がる準備に入った。
ふと気が付いた。
私の車のウインカーレバーは右方向になったままではないか。
ということは軽トラのおじさんをあれこれ言っている私自身が全く同じだったということだ。
この瞬間私の頭の中はそのだめなおじさんさん以上にダメな自分を見なければならないことになった。
それでも気を取り直して駅の改札で切符を買ってプラットホームへ。
そのときスーツが妙に軽いことに気づく。
右のポケットにはちゃんと財布はある。
左のポケットが軽い。
いつもあるはずのものがない・・・。
携帯電話(スマホ)がない・・・。
すべての情報がスマホにあるわけだからこれはどうしょうもない。
どこに置き忘れたか考えるだけで頭がパニックになる。
電車に乗って席に座ってもどうも落ち着かない。
特別スマホ人間ではないはずだと思っていたが手元にないということはなぜかいつもと違う。
今日の予定も見ることができない。
それでもなんとか大阪に着いた。
アポイントは二時なのでそれまでメンズショップをあれこれ視察。
昼過ぎとなって昼食をとるために入った居酒屋レストランでこれまた大変。
折角の食事中にみそ汁のお椀をひっくり返してしまった。
私のジャケットも鞄も椅子もみそ汁で汚してしまう。
朝から一度二度と嫌なことが起きていたので三度目のよくないことが起きなければいいがと注意はしていたのだがいとも簡単に二度あることは三度あるとなってしまった。
それでもありがたかったのは、そこのウエイトレスがとても親切であれこれ気を使ってくれたことだ。
ありがたかった。
新しい味噌汁を持ってきてくれかつ別の席に移動させてくれた。
恐縮してお礼を言いながら、食事はすべて残さずいただこうとしたが刺身についてあったわさびまでまとめて食べてしまいしばらく涙ぐむことになった。
それから目的地に行こうとしたが、そのビルの位置が一度は行ったのだがよくわからない。
普通ならスマホでいとも簡単に確認できるのだがそれができない。
仕方ないのでたまたま見つかった書店に入って地図帳を探したが、最近は昔のように様々な地図帳が売ってない。
ほとんどスマホで事足りるようになっているので仕方ないことなのだろう。
やっと一冊の地図帳を見つけて位置確認をした。
それでも会社に連絡を入れないと私と連絡が取れないということでもしかすると混乱させているかもしれないと思った。
さて公衆電話がない。
それに電話用の小銭を持っていない。
テレホンカードなどとうの昔にない。
仕方ないので自動販売機で缶コーヒーを買った。
小銭はできたのだが電話がない。
と同時に飲み終えた空き缶を捨てるところがない。
そのあたりに勝手に放り捨てるわけにはいかない。
新たに自動販売機をやっと見つけ、そのそばにある缶の回収箱にやっと捨てることができた。
それでも電話がない。
そうしているうちに目的地に到着してビルの警備員に聞いた。(実際には目的地をかなり通リ過ぎて戻っていた)
このあたりに公衆電話はありませんか。
しばらく考えて教えてくれた。
隣のビルの地下一階の禁煙室の隣に一台だけあります。
何とか見つけやっと会社に連絡。
一瞬どうやって電話すればいいのかと思ってしまった。
あれやこれや散々の目にあった。
便利なことはとてもいいことなのだが、どこかでその流れを失ってしまうと散々な目に合うということも覚悟しておかなければならない。
とりあえず商談は最悪ではなく何とかいい方向の話ができたので一安心・・・・。
足痛も含めて疲れた・・・・。
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秋の風

この時季は暑さと寒さが混ざり合って日々の変化が大きい。
朝夕上着が必要だったり、ちょっと体を動かすとしっかり汗ばんだりと、その変化に気を付けなければならない。
夏好きの人たちにとってはとても寂しさを感じる時季だろう。
このところは冬の寒さも変化してそれほど厳しさは無くなってきた。
わが家にも秋の味覚である柿や栗がたくさん実った。
昔と違ってあまり今の若者たちはこれらの実を積極的に採ろうとはしない。
大体において畑や山に入って行くことがすでに日常ではなくなっている。
自然の中にたくさんの恵みがあるけれど今では欲しいものを欲しいだけ欲しいときに買えばいいと思っている。
そして、太陽の沈む時間がどんどん早くなり暖かい鍋やおでんなどが熱燗の友になる。
運動会、秋祭りが今たけなわで、孫たちの画像がどんどん送られてくる。
われわれも四国遍路があと5ヶ寺となり近いうちにお参りして満願成就となる。
一年がこんなのんびりしたことで動いていけばそれが一番いいが、なかなかそうはいかないのだろう。
秋風はどことなく寂しきものなり・・・。
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何が何だか・・・

このところの日本の政治は何が何だか分からない。
単純明快を旨としてきた私としてはあまりにもあれこれややこしくて理解不能に陥っている。
ゴルフでもよくあることだが、アドレスに入って打つ瞬間までのわずかの間に、それまでの上手くいかなかった状況を考えどう打てばいいかなどと考えを巡らしていると大体決まって大きなミスショットになってしまう。
一番いいのはただ何も考えずいつもの通りクラブを上げて単純に振りぬけばいい。
それがあれこれ状況が悪くなるとついつい考えてしまう。
それにしても国の政治は何をどうしたいのかが全く分からなくなっている。
政治家は己のために考え行動するのか、国民のために考え行動するのか、この単純明快な問題さえ見失われてしまっている。
北朝鮮問題や教育の無償化が国会解散して国民に問わなければならない問題なのか・・・。       国会でしっかり審議すればいいことではないのか・・。
あまりにもこういう低空飛行を続けていると想定外の、それも普通に考えれば十分避けられるたわいもない障害物にさえ衝突してしまうのではないかと心配になる。
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東京一極集中

国の根幹は政治と経済。
そして国民の平和と安心の確立。
毎年の国家予算は赤字額をどんどん増やしながら総額は増え続けている。
そうしなければ国が機能しないような雰囲気を作り出している。
実際にそうなのか。
少子化が絶対的悪なのか。
様々な常識的問題とされていることも本当のところどうなのかわからない。
世界の中で幸福度の高い国は大体において人口(人口密度)の少ない国だ。
人口が多ければそれだけ活力も出るだろうが費用もかかる。
しっかりしたバランス感覚がなければ必要予算は勝手に増えていく。
国の人口バランスや人口分布(地域)も大きく関係してくる。
今や世界に類を見ないほど日本の場合は東京一極集中という現象がどんどん強くなっている。
将来の日本を設計するには、この人口のバランス、都市間のバランスをしっかり考えなければ近い将来大きくバランスを崩すことになり、いびつな現象が国のあり方さえ変えてしまうことになってしまう。
そのうえ、政治の中心と経済の中心が同じであるということは心臓と脳がくっついた状態ということであり何かの衝撃で両方が一度に機能不全に陥る可能性も高くなるわけで非常に怖いことである。
日本イコール東京という図式もそろそろ変革していかなければ世界の変化に対して対応していけなくなるだろう。
地方創生と叫ぶ人たちは東京のど真ん中にいる。
何事を進めるにしてもまず東京である。
中央集権化はどんどん激しくなっていく。
だから国の隅々まで目は届かないし、本当の国民の苦労など政府は把握できない。
事務的に出てくる数字を眺めて景気は回復しているなどと能天気な判断になってしまう。
どんな人も茶の間で南極の厳しさは体感できない。
数字や画像だけで何がわかるだろうか。そこにいる人でなければ不可能である。
根本的に姿勢や仕組みを変えるときが次第に迫っているのではないか。
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練習しない・・・

以前にも書いたが、練習しないでゴルフがうまくなる方法を今や実践中。
このところ非常に調子いい。
以前、一応メンバーになっていたゴルフ練習場が廃業してしまった。
練習はしていないのであまり関係はないのだが、それでもいざというとき近くに練習場があればとりあえずは安心できる。
それなりにうまい人は練習しなければ不安のようで、遠くても何とか練習場に行かなければならないようだ。
私はとりあえず家にマットだけ置いて気が向けば素振りをすることにしている。
それでもコースに行くことが練習である。
あれこれ考えて力んでしまうのがわれわれ素人の決まった問題点である。
だからいかに力を抜くかが大切なのだがそれが実際には非常に難しい。
力がないのに力を入れる。おかしな話だ。
力がなければないなりにゆったり振ればいいではないか・・・。
ところが、どうしても力を入れたほうがそれだけよく飛ぶはずと思い込んでいる。
最近はそのあたりが変わったところかもしれない。
以前は歳の割に力一杯振ることが周りの人にアピールできると思っていた。
しかしご存知のようにゴルフは上がってなんぼのスポーツである。
コツコツ打って上がればパーの人と、目一杯振り回して上がるとボギーかダボ・・・。
これはどちらがいいのかはスコア重視なら歴然としているのだが、それでもなぜか振り回してしまう。
ゆっくり確実に、よくボールを見て、慌てずアプローチして、よく狙ってパットする。
これだけでなぜかパーかボギーで上がれるようになる。
プロではないので楽しむことが第一であればそれほどむきになることはない。
これは理屈では誰しも簡単に理解することなのだが、いざクラブを握ってボールの前に立つと性格がいとも簡単に変わる。
いやそうではなく逆に本来の性格が出るということだ。
ゴルフぐらい人の性格が表に出るスポーツはないといわれる。
練習しなければしっかりボールをとらえることは確率的に難しいが、それでも空振りすることはないのでコツコツボールをよく見て打っていけばそれなりのスコアになる。
とにかく80台で上がることを意識していけばいいと思う。
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なんでも無償はいいことか?

日本の政治政策の中に一般の国民の受け狙いなのかそれがいいことだと考えているのか分からないが、様々な公共的な費用を無償にするという話しが非常に多いと感じる。
確かにどんなことでも安いあるいは無償ということはありがたいと感じるだろう。
特に学校の授業料や給食費の無償化はごく一般的で親の立場から言えば非常にありがたいことなのだろう。
ただ特に教育というのは人間の人生における最も大事なことで、安易に無償にすればいいものだとは私は思わない。
みんなが平等に無償であればそれが一番いいことだと考えていると、子供たちが物の大切さやそれらの物を手に入れることの大変さを身をもって学ぶことの機会を失ってしまう。
楽をして得るものは非常に少ない。
思考力、判断力、計画性、忍耐力、協調性・・・その他人間として持っておかなければならない基本的な能力を身に付けるための機会が不十分になってしまう。
それによって短絡的な判断に偏っていくことは明らかである。
ましてや世の中には得体の知れないネット社会が拡大していて、本質的な考え方や行動が、バーチャルでありながらリアルに存在する感覚で溢れかえっているため本当の筋の通った考え方や理論は育ちにくいと思われる。
費用は安いに越したことはないが、無償ということは決して人を強くすることにはならないと実感している。
昔から「ばらまき政治」と揶揄されてきたことが無償という言葉をうまく使うことで同じような現象を起こしていると思う。
無償、補助金その他真剣に努力することを省略しては強い思考力や行動力は育たない。
これからの日本の未来を背負う若い人たちは温室の中からは決して育たないことを肝に銘じておかなければならない。
苦労、努力することの価値をどうやって伝えていくかが本当は大切なことだと思う。
人は歩き始めれば、まず転んで膝をすりむくことから自分を知っていくはず。
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お礼参り

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この一か月少々は非常にあれこれと忙しく過ぎた。
考えてみれば、あれだけどうなるのかと先のことが見通せず悶々としていたことが、何とか上手くいってしまうと何をそんなに悩んでいたんだと不思議に思えてしまう。
三人娘の中で最もそのタイミングが遅くなった末娘の結婚が無事に終わってしまえば、それを心から望んでいたはずではあるが、急に何かが抜け落ちたような感覚になるのは何とも言えない妙な気分である。
それはそれとして、その前に何度かいい縁がありますようにとお参りした出雲大社にやっとお礼参りをすることができた。
予定していた日はあいにくと台風18号の影響で動きが取れなかった。
今日は台風一過で晴れとなったために急きょ出かけた。
家内の希望で、せっかくだから昼食は松江でうなぎ料理を頂こうということになった。
時間的には出雲大社にお参りする前に腹ごしらえをするほうがいい時間だった。
ところが、どうしてこうも運が悪いのかというように、やっと見つけたお勧めのうなぎ料理屋は無情にも「本日定休日」の看板が掛けられていた。
出雲大社にお参りするときはなぜかコンディションがいつもよくない。
これまでも、雨が降ったり雪が降ったりと結構冷たくされている。
我々がそうだったからこそ娘にいい縁を授けてくれたのだろうと勝手に思っている。
これでまた一つ心の中がすっきりした。
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覚悟が足りない

最近は国の最高機関にいる人たちのあまりにも稚拙な出来事が多すぎる。
厳しいけれど彼らには自分の仕事、立場に関しての覚悟がなさすぎる。
特に大きく勘違いしているのは、娯楽で成り立っているテレビのワイドショーレベルに同化していながら、何の疑問も感じないという志のなさ意思の弱さを人気者レベルで考えているということだろう。
これではまだ昔の人たちのほうが政治に対する志は明確ではなかったかと思う。
アメリカも決して褒められる状況にはないが、いくらアメリカ追随型であるにしてもこういう低レベルの在り方まで真似することはない。
もう少し日本人として己を律する心はあって欲しいものだ。
人間としての理性も責任感もない人たちが国民の前で何を語ろうとするのか。
ましてや日本の将来を背負っていかなければならない立場にいながら心は己の小さなプライドのなかに閉じこもってしまっている。
これは政治の世界だけではなく身近な我々の企業でも同じことが言える。
自分たちの将来と会社の発展とを真剣に考え覚悟して仕事に当たればそれだけで単純に20%ぐらいの成果アップは実現できる。
あまりにも多くの情報の中で妙に客観的になり過ぎて、果たしていったい自分は今どこに立っているのかさえ把握できない状況を自ら作り出してしまって、結果その中で悶々としている。
突如、部屋に開いた窓から迷い込んできた小鳥が、入ってきたはずの出口が見つからずバタバタと飛び回っている姿によく似ている。
人は落ち着いて自分の置かれた状況を冷静かつ真剣に考えてみれば、何をすべきかはそれほど難しくなく見つけられるはず。
何をそんなに慌てるのか、何をそんなに難しく考えるのか・・・。
自分のすべき役割をしっかり理解していればどんな苦境に立ったとしてもおのずとその解決策は見えてくる。
もし、うまくいかないとしたら、本気でその方法を実践するだけの覚悟が足りないのだろう。
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文化、歴史遺産

倉敷繊維産地が日本遺産に認定されたことが報道されている。
倉敷の現在にい至るまでの様々な産業活動は特に繊維産業を中心として日本遺産に認定される価値はあると思う。
しかしながらこれまでの経緯を考えると、どうもそれ以後新しい産業活動はほとんど生まれてないように思う。
そのほとんどは過去の歴史に支えられて、その流れを踏襲するにとどまっている。
考えてみるに、昔の人たちが新しい産業を興すためにあれこれ考え挑戦してきた状況と、今の人たちがその流れにただ乗っているだけの状況には大きな違いがあると私は思う。
過去の人たちに敬意を払うことはいいことだと思うが、おそらくその人たちから見るとなぜに我々のやってきたことを凌駕するようなことをやらないのかと不思議に思うのではないか。
少し前に、あるジーンズメーカーの若い社長と話したことがある。
初代経営者の努力に敬意を表しながら先祖を振り返り今一度それらの過去の商品を見直してみるという趣旨の話しをしていた。
それに対して私は、それは全く逆ではないか、恐らく初代経営者の気持ちは、彼らがやってきたことをそのまま後継者が踏襲することを望んではない、反対に自分たちのやってきたことを土台にはしてもそれをどんどん乗り越えて行ってほしいと思っているに違いないと言った。
しかしながらその結果は、新しい世界に飛び込むより過去の思いに引き込まれてしまった。
遺産というのは時として大きな力を発揮するけれど、反対に後輩たちの進むべき道を大きく拘束することにもつながる。
古いものがなくなるということは必ずしもいいことではなく、そこには様々な努力や工夫の跡がたくさん残されている。
かといって、今さら綿花を栽培して糸を作り紐を織り昔の手法でジーンズを作ることにどれだけの将来性があるのだろうか。
一つの史実として残していくというのであればそれなりの価値はあるだろうが、それが主になるということであれば疑問である。
時代は過去には決して戻らない。
いくら過去を掘り下げてみてもそれは単に思い出の世界で慰めあっているに等しい。
厳しい言い方をすれば過去の経験は大切にしつつも次の時代を動かしていくべきことに力を注ぐべきであろう。
遺産は時として、時代とともに前に進んでいくべき人たちに大きな勘違いをさせてしまう。
元総理大臣・・はあくまで過去のことであって名誉ではあっても現実ではない。
今のファッション業界の問題点は新しい主張がなく売れることが第一になってることで楽しさも刺激も非常に少なくなってしまっていることだ。
遺産の価値を決して否定しないが、遺産に頼ることの希薄さと危うさも知らなければならない。
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継続すること

継続は力なりと言われるが、一つのことを継続し続けることは大変なことである。
一流のスポーツマンや芸術家、音楽家など一つのことに集中して継続することでその世界を極めている。
誰れしもそうしたいと思いつつ、果してこれを続けることがいいことなのだろうか、他にもいいことはあるかもしれないなどと人は考え易く結局は途中で方向転換してしまう。
継続しなければ到達できない世界がある。
それは分かっていても果してそこに何があるのかよく分からない。
継続する人はその先に何があるとかということよりも継続することに価値を見出すことができる。
デニムスーツ、たかがデニムスーツ。
この世界に集中継続することは、どこかでそれだけでいいのだろかと不安になる気持ちを否定はできない。
それはどんな世界でも同じことで、先の先までが読み切れるわけはないので常に不安と自信は裏表でやってくる。
だからこそ、日々新しいこと新しいやり方を考え、できる限りの可能性を引き出すことに力を注ごうとする。
前例のないこと、人のやらないことをやることを私は判断の基準として来た。
結論より結果が大事。
要はあれこれ悩んで考えてどうするかの結論を引き出すより、とことん考えたのであれば思い切ってやってみることがどれだけ生きた答えを引き出してくれるかを知るべきだろう。
このデニムスーツに関しての私の自信は、世界中の誰よりも考えを重ね、まざまな実践と経験を繰り返したというところから生まれていると思っている。
その努力を継続する限りデニムスーツの魅力は決して減ることなく反対にどんどん広がっていく。
今はまだスーツの中のデニムバージョンという見方は強いと思うが、いずれデニムスーツというカテゴリが確立できるはずだと思っている。
その昔、ジーンズとはリーバイスだと言われた時代があった。
われわれの目指すのは、デニムスーツとはインブルーだという世界である。
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