今年も残り少なくなりました

一年というのは長いのか短いのかわからないがこの時期になると間違いなく一年は短いなあと感じる。
歳をとるとなおさら短く感じるようになる。
えっ、この間忘年会したばかりじゃないか…。
というのは大げさだがそれに近い感覚である。
振り返ってみるとナッシュとしては今年の忘年会で27回めの忘年会ということになる。
毎年いろんなことがあって、いろんな思いで忘年会をしてきた。
すごくたくさんの人たちに参加してもらったこともあるが、わずかの人数だったこともある。
それでもこうして会社が継続していることは本当にありがたいことだ。
その都度そのときの社員とさまざまな思いを共有してきた。
しかし状況は必ずしもいい方向とは言えず、年々厳しさに直面してきた。
とくにアパレル、ジーンズメーカー向けのテキスタイルビジネスはこの10年で大きく変化した。
これまでの企画中心のナッシュ流はなかなか受け入れられなくなってきた。
それはアパレル、メーカーの営業力、企画力にもよるが現実そのものがリスクを避ける傾向がどんどん強くなり独自の企画を組み立てられなくなった。
誰かがリスクしている素材を利用しようということになり、独自の素材開発が以前より極端に少なくなった。
当然市場の様相も大きく変わり、市場に流通する商品の量は増えていると思うが、消費者に刺激を与える新しい感覚の商品は少なくなっている。
ナッシュのテキスタイルビジネスも、ここら辺りで一旦立ち止まって市場の状況をしっかり眺めてみることも必要だろう。
今の業界はあまりにも儲けることにこだわり過ぎてドキドキするような冒険は少ないとみる。
これは日本の消費者マインドが年々低下していることにも関係していると思う。
背景には生活への不安感が漠然とではあるが覆いかぶさっていることがあるようだ。
一億総活躍などと抽象的なお題目より具体的に何をどうするのかをはっきりさせて明快な政策をアピールしてほしいものだ。
総理の肝いりの獣医学を学ぼうとする人を増やすか増やさないかは、いくら大きな予算を使っても消費者の消費意欲には何も貢献しない。
その上、消費税が10パーセントになればなおさら消費者は心が冷えてくる。
来年こそはと気持ちを切り替えようとしても現実の厳しさばかりが気になってしまう。
今年の事は思いっきり忘れて来年をいい年にしようという本来の忘年会もどこかに不安を抱えながらの瞬間逃避になってしまっては益々大変。
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あれこれ考える

インブルーデニムスーツは構想から言えば10年をすでに過ぎてしまった。
様々な経験をしながらも確実に前進してきた。
これまでの状況を十分に振り返りながらもこれからの方向や夢を改めて見直さなければならない。
現状維持をすることは一見たやすいことだが実際には非常に難しい。
ならばこれからいかにして新しい流れを創造するかを考えることがいいことだろう。
物事は現状を守ろうとするときより前に進もうとする力が発生したときの方がうまくいく。
改めてインブルーの将来を考えてみると、もっとも大きな課題は人材の確保だ。
これまで何人ものスタッフがやってきてくれたが、残念ながらその多くは十分力を発揮できる前に去って行った。
どんな仕事も一年二年で上手くいくはずはないのだがその辛抱がなかなかできない。
これらの結果は、それはそれでそうなるようになっていたと考えることが自然だろう。
改めてより真剣度の高いスタッフを呼び込もう。
新しい店舗についても考えていこう。
そのためには少なくとも二店舗分のスタッフを確保しなければならないから、野球やサッカーのチームと同じで全体のチームワークが十分に取れるグループ作りをしなければならない。
また一方で、これからの時代はAIの時代と盛んに言われていて、人間の仕事をAIがこなしてしまうようになっていく。
もうすでに大企業の中では早くて間違わない仕事のできるAIを想定してリストラが進行しつつある。
これは我々人間にとっては大いなる恐怖だと思う。
反対に考えれば、AIにできないことを我々ができるようにすることが重要なポイントになってくる。
人間が本当に真剣になれば曖昧模糊とした状況のなかではより判断がしやすくなるようにも思う。
未来に起こる事や人の心はいくらAIでも単純な計算ですべて計ることはできないだろうし、いかなる時代にも計算できないことが存在するはず。
あまり大げさに考えることもないだろうが、人には人が接することが一番いいはずである。
インブルーにはそんな人間っぽくて他の誰にもできない何かが育ちつつある。
それが大きく育ったとき究極のインブルーデニムスーツの世界が出来上がると思っている。
たかがデニムスーツであるけれど、我々の意識の中ではまさに小宇宙である。
この感覚を共有してくれる人たちと小宇宙からデニムスーツを届けていけるようになりたいと願っている。
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考えて、話して、動いて。

最近の科学技術の進歩はすごくて、どうにも私には理解できない、ついていけないことが多すぎる。
とにかくそれらを使いこなすことができればこれほど便利なことはないということなのだろう。
それでもそれだけ人間らしさが失われていくようにも思う。
おはよう。                                                          ・・。                                                              今日も元気かい。                                                     ・・。                                                             ちょっと元気なさそうだね。                                                 ・・。                                                     心配事でもあるのかい。                                                ・・。
こんなごく普通の会話がだんだん少なくなって特に若者の間ではテキストによる単なる伝達行為が多くなっている。
人はもともと言語以外に相手の感情や思いを感じ取る力を持っている。
それは小さいときから考え、話し、行動することを繰り返すことで身に付けたごく当たり前の基本能力だ。
最近は人の顔をしっかり見て感情豊かに会話をしながら相手の言いたいことも理解するというごく普通の能力が危うくなっている。
身近な最近の例だが、相手の状況も考え方も全く斟酌も意識もしないである日突然「仕事辞めます」という。
自分の意思表示を明確にすることは確かにしっかりしていると思えるが、そこに至る過程がほとんど省略されて伝わってこない。
考えて、話して、行動することが人間の人間らしさだと考えれば、どうもそのらしさを放棄しているとしか思えない。
一日中机の前に坐ってパソコンを操作しているなら次第に足腰は弱くなり、その結果ほとんど動かない人間はどこか体の調子がおかしくなる。
動き回ることは人間にとって非常に大切なことで体を正常に保つためには欠かせない。
そしてまた頭を使い、考え、人と話をすることが人間の脳を大いに刺激し精神的にも健康でいられる。
家の中に閉じこもり同じことだけを繰り返し考えていることは人間にとって健全な状態ではない。
体を動かすこと、頭を使うこと、口を動かすことは、それ以外にも大切なことはあるだろうが少なくとも人間らしい生き方を維持するには大切なことだと思う。
世の中がどんどん便利になればなるほど人は動かなくなり広範囲には頭を使わなくなる。
最も基本的な能力がどんどん失われていくことになる。
一般的時代の流れとは反するかもしれないが、これからの時代は科学技術の発達とともにその対角線上にある第一次産業の世界が大いに見直されてくると思っている。
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何かがおかしい

この数年、何かが次第におかしくなっている気がする。
それはあくまで私自身の感覚だと思うが、いろんな世界、業界そのものの質に変化があるように思う。
メイドインジャパンの信頼性は何年もかけて作り上げたものだが、もうすでにその根幹が緩んでしまっているのではないかという事実がどんどん表面化している。
人間にとっては常に真剣でかつ緊張した状態を保つことは非常に難しいことなのだろう。
築き上げるための時間や努力は半端ではないはずだが、それを知らぬ間に慢心した心がいとも簡単に壊し去ってしまう。
また驚くような残酷なあるいは軽いノリで重大事件を引き起こしてしまう例も驚くほど多い。
教育の無償化が叫ばれているが、果たして教育は無償化するだけでいいのだろうか。
むしろその教育内容を長期的計画的に考え直すべきではないのだろうか。
日本ではトップクラスの大学も世界のなかではその存在感はどんどん下がっている。
日本人って何なのか、人間とはいったい何なのか。
日本の向かうべき方向を安心・安全・幸せという雰囲気言葉だけで表現することの軽さ。
具体性を欠いた単に語感だけのいい言葉を使って賛同を得るやり方は決していいことではない。
最も大切な基本教育なくして、どう無償化するかとか、いつから英語教育をすべきかなどの浮ついた策ばかりが議論されることの不安さは誰も感じないのだろうか。
政府が政策や問題に対する答弁を丁寧にすることが改めて今ここでことさら大切なことだと主張されているが、それはもとから大切な基本の要素であるはず。
それさえも改めて丁寧に説明しますということで「なるほど・・」それで信用に値するなどと分からない評価をすることそのものがおかしいのではないか。
注意深くよく見てみると、表面上の雰囲気だけがどこか変わったように思えるだけで、ことの本質はほんのわずかも変わってないことに気付く。
忖度という言葉が急に意識されているがそんな簡単な駆け引きで事が進んでいくことそのことが問題である。
侃々諤々の議論が大切なのであって簡単に納得了解などあってはならない。
そこには必ず思い違いや誤解が生じる。
十分な議論がなければ勝手に思い込んだことを修正することさえできなくなる。
レベルの低いご都合主義であり自己防衛の浅い意識しか感じられない。
こういう時代には気を付けなければならない。
なんとなくことが進み知らぬ間に想像以上に厳しい状況に陥ってしまうことになる可能性もある。
日本とは日本人とはいったいどうあるべきなのか。
言論の自由が保障されているにもかかわらず忖度する意識が強くなることは最もまずい状況であるといえる。
決して昔がいいわけではないが、これからは改めてそれぞれの考えを明確に発言し、芯の通った強い、そして尊敬される国民、日本を意識しなければ一億総バラバラの国になるのではないかとさえ思う・・・。
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デニムスーツとは

この十年の間にいろんなことが変化してきたことでわれわれのデニムスーツの持つ存在感もそれなりに変化してきた。
当初は、デニムスーツとは「ジーンズでしょう?」という問いから始まって、ジーパン感覚のハードさや重たさは当然のこととして意識され、そこからなかなか脱しきれなかった。
お客に対して、デニムスーツはジーンズではなくスーツのデニムバージョンですという説明を何度も繰り返した。                                               言葉では説得しきれないことのもどかしさを感じていた。
それでも実際に袖を通したその瞬間からお客の表情が大きく変わった。                                 ほとんどの人はそれまでの漠然とした概念を捨て、すんなりデニムスーツを認識し、なおかつ驚きを感じた。
スタートから10年の歳月が流れ今では確かな手ごたえを日々感じるようになった。
常に意識していることはデニムは決して最も優れた素材ではないということ。                             スーツの歴史の中で連綿とその価値を持ち続けているのは何と言ってもウール素材である。
それでもウールにはないこの若干手間はかかるが個性のある素材に人は心惹かれる。                             この微妙な感覚がたくさんの人たちの心にそろりそろりと入り始めている。
決して肩肘張るわけだはないがなぜか存在感がある。                                        それは何とも言えない心地よい存在感である。                                              恐らくこれほど着るときにスーツの存在感を自分自身で感じるスーツは他にあまりないのではないか。
インブルー・デニムスーツはそれまでのデニムのハードで丈夫、そして色の落ち具合という特徴を一旦切り離すところからスタートしている。                                                 ということは、それまで誰もがデニムの絶対的魅力としていた特性を一旦すべて否定してみるということである。                                                            これは発想の転換というよりデニムをより昇華させたということだと思っている。
いずれにしても新しい価値を生みだしたということは間違いないと思う。
これからのデニムスーツの存在感がどのように広がっていくかは、デニムスーツを単なる一時期の流行としてとらまえるのではなく、これまでのスーツの中に新しい楽しいカテゴリーとして定着させることができるかどうかである。
オウナーとして、インブルー独自のしっかりした進むべき道筋を明確にし、デニムスーツを心から愛するスタッフたちと熱い議論を交わすことで、インブルー・デニムスーツはより魅力的に成長していけるはずである。
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真似る

真似るという言葉からはあまりよくないことを連想するかもしれない。
人様の考えやアイディアをそのままちょっと失敬することはよくあることのようだが、真似るということとそのまま拝借するということにはいくらか感覚的には違いがあるように思う。
われわれはこの世に生まれてからそのほとんどは人のすることを真似ることから始まっている。
まずは母親のすることを一心不乱に真似てきた。
真似るという意識をしなくてもそうすることで様々な経験をしてきたことは間違いない。
それでも仕事を始めるようになると上司から俺の言うとおりにやれと言われながら上司と全く同じようにやろうとすると嫌がられてしまう。
しかし野球やゴルフなどのスポーツ、絵や書、音楽などいずれも指導者の言う通りに真似ていかなければ決して上手くはなれない。
だから何事も自分より優れている人に対しては真似る精神は欠かせないことだと思う。
真似るという言葉のニュアンスは人によって感じ方が違う。
しかしいくら徹底して真似てみても全くそれと同じことには、あるいは同じものにはになりえない。
そうしてあれこれやっている間に自分らしい何かが出来上がってくる。
個性がそこで発揮されることになる。
先人たちが長年かかって築き上げた経験や技術はそれをものにするまでに大いに苦労したはずだがその成果をわれわれがうまく利用できるとすればそれは素晴らしいことだと思う。
しかし引き継いでいく人たちにはその先人たちと同じ苦労を共有しているわけではないことでどうしても気持ちは安易になってしまうことにもなる。
時代がどんどん変化することで、それらの経験が現実的ではなくなってしまうこともあるだろうが、それでもそこには大切な基本がしっかり埋め込まれているはず。
われわれは、ときとして現代の便利さで過去の技術や経験を軽く見てしまうことがあるが、これからの世界の安心と安全の基本には高い技術だけを追い求めて宇宙へ飛び出していくことだけでなく、もっと人間的な生き方を近くで真似ていくことも、この人間の地球をより住みよくするためには欠かせないことだと思う。
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辛抱

何事も一朝一夕には成就できない。
物事を成そうとすればそれなりの時間や努力は欠かせない。
その瞬間、上手くいきそうだと思えても決して現実はそう甘くはない。
しかし情報が多い今の時代、実際とは異なる状況が勝手にできあがっていく。
それらのほとんどは勝手な評価であったり予想だったりすることが多く、単なる評論家の安易な分析であったりする。
そのためにあまりにも簡単に勘違いを促すような状況や要素が生まれる。
石橋をたたいて渡るぐらいの慎重さと準備が必要だろう。
仮に上手くいかないとしても決して諦めることなく努力を続けるべきで簡単に小手先で誤魔化すことはしてはならない。
辛抱とは目的を持っていることが前提でなければただ単に苦しいだけでしかない。
辛さを抱え込むということであるからそれなりの覚悟と目標がなければならない。
目標達成に5年かかるかもしれないし10年かかるかもしれない。
それでも諦めない強い心がなければ辛抱することは早々にやめたほうがよいだろう。
ただ辛抱とは何なのかが分からないまま己の都合であれこれ理屈を言ってしまう人たちも多い。
少なくとも3年5年は真剣に全力で頑張ってみるべきだろう。
辛抱とは辛さとの闘いであるけれど、その結果その人にとっての独自の味わいが生み出される。
そのときこそ辛抱の甲斐があったということだろう。
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有言実行

日本人の美徳として、昔は不言実行ということが男としてはいいことなんだと聞かされてきた。
あれこれ言うより、黙ってやることをしっかりやれということである。
ところが近年になると不言実行より有言実行の方がはっきりしていてわかりやすいということになっている。
確かに不言実行というのは言葉先行ではなく控えめでいいともいえるが、結果がどう出るかによっては考え方がどこにあったのかが分からないために評価の仕方がない。
そうかといってあまりにも有言すぎると、果たしてどこを信じて何をどう期待すればいいのかが微妙にもなる。
勢いよく大声で旗を振ることは一見勢いがあっていいようだが、その勢いを最後までどのように維持できるか、そしていかなる成果を上げることが出来るのかが非常に大切になる。
もしも途中で勢いがしぼんでしまうと一気に評価が変わってしまうことにもなる。
俗に策に溺れすぎるとこういうことにもなる。
周りの人に多くを期待させていながら結果としては成果が何もない。
有言だろうが不言だろうが最も大事なのはやるべき人がやるべきことを確実に成果を上げてやり抜くことだ。
有言不言は一つの状況であって結果とはあまり関係ない。
それらはその人のある種の個性であって、勢いをつけるための掛け声のようなものだろう。
それでも周りの人たちにとって心地よいのは間違いなく有言実行であろう。
考えていることも実際にやることも、そしてその結果もすべてがオープンになるわけだから見ていても聞いていても心地よい。
ところが最近は有言でも不言でもどちらであっても、どうにもその成果がはっきり見えないということが多いのではないか。
小気味よい切れ味の有言実行派のリーダーが今こそ必要なときではないかと思う。
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なんでこうなるの・・・

久しぶりに大阪出張した。
実のところあまり気の進まない商談。
こういうときは何かとうまくいかないことが多い。
この間から右足の親指の付け根あたりが赤く腫れてとても痛い。
歩くのがとても大変。
仕事だから少々足が痛くてもそんなこと言ってられない。
頑張って出かける。
車で駅まで行く間にまず第一の奇妙が起きた。
右に曲がる交差点を過ぎたところで前の左車線を走る軽トラが右のウインカーをそのまま点滅させている。
なんだこのおじさんは・・。
年取るとこういうことがよくあるんだよな・・・。
延々一キロ、私は軽トラを気にしながら追い抜いた。
見るとそれなりの年寄り・・・。
やっぱりこういう人は良く忘れるんだよな。
ぶつぶつ言いながらその先の交差点で私はまた右に曲がる準備に入った。
ふと気が付いた。
私の車のウインカーレバーは右方向になったままではないか。
ということは軽トラのおじさんをあれこれ言っている私自身が全く同じだったということだ。
この瞬間私の頭の中はそのだめなおじさんさん以上にダメな自分を見なければならないことになった。
それでも気を取り直して駅の改札で切符を買ってプラットホームへ。
そのときスーツが妙に軽いことに気づく。
右のポケットにはちゃんと財布はある。
左のポケットが軽い。
いつもあるはずのものがない・・・。
携帯電話(スマホ)がない・・・。
すべての情報がスマホにあるわけだからこれはどうしょうもない。
どこに置き忘れたか考えるだけで頭がパニックになる。
電車に乗って席に座ってもどうも落ち着かない。
特別スマホ人間ではないはずだと思っていたが手元にないということはなぜかいつもと違う。
今日の予定も見ることができない。
それでもなんとか大阪に着いた。
アポイントは二時なのでそれまでメンズショップをあれこれ視察。
昼過ぎとなって昼食をとるために入った居酒屋レストランでこれまた大変。
折角の食事中にみそ汁のお椀をひっくり返してしまった。
私のジャケットも鞄も椅子もみそ汁で汚してしまう。
朝から一度二度と嫌なことが起きていたので三度目のよくないことが起きなければいいがと注意はしていたのだがいとも簡単に二度あることは三度あるとなってしまった。
それでもありがたかったのは、そこのウエイトレスがとても親切であれこれ気を使ってくれたことだ。
ありがたかった。
新しい味噌汁を持ってきてくれかつ別の席に移動させてくれた。
恐縮してお礼を言いながら、食事はすべて残さずいただこうとしたが刺身についてあったわさびまでまとめて食べてしまいしばらく涙ぐむことになった。
それから目的地に行こうとしたが、そのビルの位置が一度は行ったのだがよくわからない。
普通ならスマホでいとも簡単に確認できるのだがそれができない。
仕方ないのでたまたま見つかった書店に入って地図帳を探したが、最近は昔のように様々な地図帳が売ってない。
ほとんどスマホで事足りるようになっているので仕方ないことなのだろう。
やっと一冊の地図帳を見つけて位置確認をした。
それでも会社に連絡を入れないと私と連絡が取れないということでもしかすると混乱させているかもしれないと思った。
さて公衆電話がない。
それに電話用の小銭を持っていない。
テレホンカードなどとうの昔にない。
仕方ないので自動販売機で缶コーヒーを買った。
小銭はできたのだが電話がない。
と同時に飲み終えた空き缶を捨てるところがない。
そのあたりに勝手に放り捨てるわけにはいかない。
新たに自動販売機をやっと見つけ、そのそばにある缶の回収箱にやっと捨てることができた。
それでも電話がない。
そうしているうちに目的地に到着してビルの警備員に聞いた。(実際には目的地をかなり通リ過ぎて戻っていた)
このあたりに公衆電話はありませんか。
しばらく考えて教えてくれた。
隣のビルの地下一階の禁煙室の隣に一台だけあります。
何とか見つけやっと会社に連絡。
一瞬どうやって電話すればいいのかと思ってしまった。
あれやこれや散々の目にあった。
便利なことはとてもいいことなのだが、どこかでその流れを失ってしまうと散々な目に合うということも覚悟しておかなければならない。
とりあえず商談は最悪ではなく何とかいい方向の話ができたので一安心・・・・。
足痛も含めて疲れた・・・・。
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秋の風

この時季は暑さと寒さが混ざり合って日々の変化が大きい。
朝夕上着が必要だったり、ちょっと体を動かすとしっかり汗ばんだりと、その変化に気を付けなければならない。
夏好きの人たちにとってはとても寂しさを感じる時季だろう。
このところは冬の寒さも変化してそれほど厳しさは無くなってきた。
わが家にも秋の味覚である柿や栗がたくさん実った。
昔と違ってあまり今の若者たちはこれらの実を積極的に採ろうとはしない。
大体において畑や山に入って行くことがすでに日常ではなくなっている。
自然の中にたくさんの恵みがあるけれど今では欲しいものを欲しいだけ欲しいときに買えばいいと思っている。
そして、太陽の沈む時間がどんどん早くなり暖かい鍋やおでんなどが熱燗の友になる。
運動会、秋祭りが今たけなわで、孫たちの画像がどんどん送られてくる。
われわれも四国遍路があと5ヶ寺となり近いうちにお参りして満願成就となる。
一年がこんなのんびりしたことで動いていけばそれが一番いいが、なかなかそうはいかないのだろう。
秋風はどことなく寂しきものなり・・・。
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