只より高いものはなし

無償化という言葉が魅力的に感じるか、何かがおかしいのではないかと感じるか。
どんな物にも必ずそれなりのコストがかかる。
会社経営をしていればわかることだが、[只]と規定できる物は何もない。
そこに存在するだけでもコストがかかっている。
それなのになぜか国中が無償化という表現に惑わされている。
無償も只も全く意味は同じ。
どこかにその財源がなくては無償にはできないのだが、個人で考えれば人に物やお金を只で上げる場合にはそれに見合う何かの見返りがあるはず。
そうでなければただ単に損するだけでしかない。
借金してまで人に只で物を上げようとする人はまずいないだろう。
じゃあ、物や金をもらう側はどうか。
新聞の折り込み広告は宣伝の効果を考えてその経費を売り上げでカバーしようと考えている。
店の増改築や新規出店はそれまでの利益を吐き出すのかそれとも商品の販売金額に上乗せするのか、間違いなく売り上げが増えるのか、いずれもそこには算盤勘定がしっかりなければならない。
考えてみると、只で手に入れたものにはほとんどそれに対する思い入れがないためいとも簡単に捨て去ってしまう。
人は高い金を支払って努力して手に入れるからこそ大切に長く使おうとする。
学校は誰しも行かなければならないところではあるが、誰しもが向学志向であるわけではない。
そういう人たちに無理やり只だから学校に行けと言ってもこれはとんだありがた迷惑でしかないかもしれない。
要は教育というのは物の価値や必要性をしっかり理解し身に付けることを同時に教えなくては上手く成り立たない。
私の年代でも何年間も学校通いをしても全く勉強に興味がわかなかった友人たちは大勢いる。
そしてまた、そのほとんどは英語が喋れるわけでもない。
それでも、その彼らがなにもできないかといえば、全くそんなことはなく立派に仕事をこなしている。
今でいう妙なフリータ的な人や引きこもりになる人はまずいない。
人はそのことに興味をもち価値を感じるとどんな努力でもできるようになる。
問題なのは無償にすることで人は真剣になったり努力したりできるようになるのではないということ。
一度経験した「只の味」は残念ながら多くの人たちの良くない経験になってしまう。
人は苦労して、努力して、失敗して、思うようにいかない悔しさを感じて初めて強くなれる。
それ以外に本当の強さは身につかない。
人から只で与えられたもので成功することもほとんどないだろう。
それだけその後の苦労が大きくなるだけで、最初から普通に苦労し努力することが最も人間にとっては自然で確実に力がつくことになる。
一般受けしそうな無償化などということは大きな声でアピールすることではない。
これからの日本は今以上に思考力のある強い人たちを育てていかなければ、人の言ういいことだけを聞く人たちが増えてしまい、そうなれば日本の将来はどんどん暗くなる。
広告
カテゴリー: Uncategorized パーマリンク