災害はいつ来る?

ある日から突然にとんでもないほどの雨が降り続いた。
一向にやまない雨。
どこにそんなに大量の雨が潜んでいるのか?
素人の頭ではどうしても延々と雨が降り続くことが不思議でならない。
確かに太平洋の水分を大量に吸い込んでそれが上空高くで冷やされて雨に変わる・・・。
その説明は分かるが、なぜにこれほどまでに大量になるのか。
そんなことを言ってみても仕方ない。
現実に何日もそれが帯状に同じ場所に降り続いて広い範囲に莫大な被害を与えてしまった。
水が無ければ人は生きていけない。
いやすべての生き物にとって水は必要である。
だからと言って今回の雨は恵の雨とは言い難く大きな爪痕を残すことになった。
何事も程々ということがいいのだろうが、程々にうまくバランスをとることは最も難しいことなのかもしれない。
備えあれば憂いなしとは言うけれど、雨が降れば雨の備え、地震が来れば地震への備え・・。
それにも準備できる範囲がある。
言うは易く行うは難し。
予期せぬことが予期せぬときに起きる。
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あれこれ言ってる間にもう7月

私の干支である戌年だと喜んでいる間に、はや半年を過ぎ最も昼の時間が長い夏至も通り過ぎてしまった。
あれこれやらなければならないことが一杯ありながら、その実践は反対になかなか進まない。
それでも時間だけはとどまることなく日々刻々と過ぎていく。
若い人には様々なことを経験する時間が必要だろう。
だが私にはこれまでの経験をいかに有効に伝えていくかということに頭を悩ませる。
考えてみると若いころ私は上司にあれこれ質問をしすぎてよく叱られた。
上司から見るとそんなに焦らなくともそのうちわかるよといった感覚があったように思う。
給料をもらうためだけに仕事をしているのではないという意識が非常に強かったようだ。
今でも頭の中はあれこれ一杯の悩みごとが駆け巡っている。
何か少しでも仕事に役立つことはないか、何をどおすれば新しい可能性につながるのかなど、何を話しても何を見ても仕事に関係してしまう。
今月で72歳を迎えるけれど、気持ちの上では歳は意識していないがこういう話をしていることが大いに歳を気にしているということなのだろう。
新しいデニムとは何なのか。
新しい顧客へのアピールの方法は何なのか。
新しいネットビジネスのありかたは何なのか。
スタッフのやりがいはどこから生まれるのか。
考えることはきりがなく延々と続く。
貴重な経験を一杯してきたけれど、なぜかそれを伝えることがなかなかできない。
あまりにも時代が違いすぎるのか、それともそういう経験を聞くことに若い人たちはあまり興味がないのか・・・。
確かにそれらの経験に日付を付けると昭和という時代が多いかもしれないが、どんな時代であってもそこにある考え方ややり方の根本はほとんど変わらないと私は確信する。
何をどう使うかということだけではなく、やろうとする人たちのやる気や気力が十分に有るか無いかということが一番大事なことだろう。
目的のない船はただ浮かんでいるだけ。
進む原動力を持たなければこれもただ浮かんでいるだけ。
海の上ではその状態はっきり自覚できるけれど、日々の仕事の上ではなかなかその状況を認識することができない。
水の流れも、今やなだらかで広い状況の中ではただ緩やかに穏やかに流れていくだけなのか・・・。
関東地方では例年になく早い梅雨明けのようだが、この調子ではあっという間に秋に突入するのではないかと思う。
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潔さ

何事においても、潔さというのは人間にとって大切な要素だと思う。
ところが最近の日本において、トップにいる人たちの潔さというものがほとんど失われてしまったようだ。
何かにつけ言い逃れや詭弁を弄することがあまりにも多い。
いつぞやは相撲界においても横綱が勝負判定にクレームを付けた。
トップたる者が自分の負けを真摯に認めることをせず、審判(行司)に不満を示すなど、そこにはまったく横綱としての潔さは感じられない。
スポーツ界は潔さを基本にしていると思っていたが、様々な問題を積極的に起こしたり権力で押し切ろうとしたり、どこにも本来の潔さは見当たらない。
もしかするとアマチュアスポーツにおいても同様の現象が起きる可能性を感じる。
これらはなぜ起こるのか。
答えは簡単。
日本で一番権限を持つ立場の人があまりにも姑息な論法を使いすぎるということ。
どんな組織でもトップが清廉潔白で潔さを持ち合わせていたら状況はいくらでも改善できる。
誰しもトップの行動をよく見てるし判断の基準にする。
あれでいいんだったら私もそれでいこうと考えることは残念であるが大いにありうる。
トップが率先して範を示さなければ、口先で問題を徹底的に解明するなどという言葉を何度繰り返しても、己の立場の擁護のための権限や無言の圧力をかけることが常套手段として使われるようになっていては、範を示すことなど到底できないだろう。
もう日本には潔さは存在しないのではないかと思う。
権限を持つとなぜこれほどまでに人は正義も潔さも失ってしまうのか。
誰が範を示してけじめをつけるのか。
改ざん、ねつ造、口裏合わせがごく普通に行われ、無言の忖度がいとも簡単になされるに至ってはどうしようもない。
それらは我々をとことん失望させる。
そして最も悪いのは権限を振りかざし圧力をごく普通にかけてしまう。
本来、最も使ってはならないこれらの事柄をいかにうまく使うかがトップに立つ人間の力量ということになっている。
本来の筋道が幾重にも捻じれている。
だから、何が正しいのか、何をしなければならないのか、何が冷静でかつ正しいやり方なのか誰もわからなくなる。
そのうえ、何かあれば第三者委員会を設けてという常套句が出る。
第三者とは当事者とは縁もゆかりもない正味の第三者でなければ意味がないのだが、力関係や金銭関係が微妙につながっている場合がほとんどである。
今では何が正しいことなのかを心を正して主張できる人がいなくなるのではないかと思う。
マスメディアもそれぞれの最も大切な一般大衆の立場を守るというスタンスに欠けていて、特にワイドショーなど評論家なのか単にコメンテイターなのかわからないだけでなく、検事や、探偵や、弁護士が、またそれらしい分析を素人タレントが軽々しくしかし堂々と主張する。
そしてまたネット上ではありとあらゆる意見、中傷が飛び交ってしまう。
もうこうなっては何が何だかわからない。
文明の利器も使い方を誤れば世の中を大いに混乱させるだけの道具になってしまう。
これらの混乱はトップの姿勢次第で大いに違った状況になるはず。
真摯な心、真摯な態度で潔さを基本に持って事に当たることが、これこそ人の信頼を得られる唯一の正しい方法だと私は思う。
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満願成就

娘の結婚を願って、二年がかりで四国霊場八十八ヶ所巡りを終え、しばらく間が空いたが今回やっと高野山へ満願成就のお参りをすますことができた。
金剛峯寺を経て奥の院でやっと納経帳へ墨書きと御朱印を頂く。
もうすでにそのご利益は子供を授かるに至っている。
8月の誕生予定ではあるが、事がうまくいってしまうとすべてが簡単だったような錯覚に陥る。
しかし、振り返ってみるとなかなか大変で、結婚というのは人によればいとも簡単に決まってしまうようだが、わが三女に関してはしっかり我々に神頼みしなければならない状況を作ってくれた。
経過はどうであれ結果としてうまくいけばこれはめでたしということだろう。
車で4時間以上かけて、なぜかここで道に迷いながらもなんとかたどり着いた。
お参りを済ませて、折角なのでその日は家内の希望で大阪のホテルに一泊。
これには彼女の狙いがあって大阪で買い物をしたかったわけだが、結果としては希望の商品がなく期待が外れてしまった。
それでも翌日ホテルでのんびりしながらも改めて目的変更で素晴らしい服を手に入れることができ彼女は大喜び。
こんなわけで一応のけじめをつけることができた一安心の旅であった。
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出る杭は打たれる?

あまり出しゃばることなく程々にすることがよろしい・・・。
あれこれ主張したり新しいことに興味を持ちすぎたりすることは周りに波風を立てることになり、様々な攻撃を受けることになる。
これをただ単に出しゃばるということと考えるとそれはいいことではないだろう。
しかしながら新しいことはそれだけで普段の常態に対して何らかの波風を立てることになる。
みんなが横並び状態でありながらことがうまく運ぶということは非常に希である。
見た目とか波風立てないという意味では安心できる形だろう。
そしてそれは、周りの状況だけ確認していればいいわけだから居心地は決して悪くはない。
ところが残念ながらこれでは一向に進歩発展は望めない。
去年買った服がもう小さくなって着られない。
それぐらい子供の成長は早い。
親はそれを見ながらブツブツ言うかもしれないが、自分の子供がどんどん成長することは嬉しいに決まっている。
確かに波風立つだろうが出る杭は多いほどよろしい。
飼い犬のようにお預けといえばいつまでもじっと待っているようでは会社は進歩発展していかない。
社長が指示すれば、組織として決めればいつまでもそれを守り続ける。
一見いい社員のように思えるかもしれないがそんなことは決して褒められたことではない。
日々、世の中は変化している。
昨日言ったことも今日は変えなければならないかもしれない。
そんなときに指示通りにしか行動できないというのはむしろ厳しいかもしれないが前に進むためには邪魔になるだけかもしれない。
ときには上手くいかないときもある。                                         うまくいくことの方が難しい。
であるならば、しっかり考えしっかり実践してみることが、じっとして頭の中だけで考えているよりも周りの状況はよく見えてくるだろうし、周りの人からの協力も得られやすくなる。
いずれにしても前に出れば、上に上がればそれだけ状況がよく見えるということには間違いない。
だからどんどん出る杭のごとく中身をしっかり充実させながら進むことが最もそれぞれの存在をアピールでき、それが最も会社にとっては魅力的なことだと意識すべきだろう。
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トップの責任

どんな組織でもそれを動かすリーダーがいなければ十分に機能しない。
国であれ会社であれ学校であれ組織を構成する以上は必ずその組織にはトップが存在する。
昨今の世界中の問題には、その組織を動かすリーダの意識が問題を引き起こす大きな要因になっている。
日本においても大方の問題の根幹にはリーダの意識が大きく影響していることは明らかである。
単純に、リーダーが清廉潔白で誰が見ても不正なところがなければ何の問題も起こりにくい。
問題が起きたとしても、その原因を自ら明確にして即座にそれを改めればことはそれで収まる。
人間は常に過ちを犯す。
それはどんな聖人君子であったとしてもときの流れの中では方向を誤ることは起こりうる。
残念ながら問題が延々と解決せず、どんどん見えにくくなっていくのは、誰のせいでもなくトップにいるリーダーの姿勢そのものによる。
トップはその組織における最高の権限を持つわけで、その権限をどの方向に向けて使うかによって状況は単純にもなり迷路に入ってしまうことにもなる。
その組織のトップに単純明快さが欠けているようであれば、それを明確にして部下たちが補っていけばいいのだが、どうしてもその潔さに欠けていることが多く、言い訳が言い訳を呼び何が何だか分からなくなってしまう。
部下たちも何をどうすればいいのか迷ってしまう。
結局権限が権力となりその強さが物を言うことになってしまう。
そこには正義も民主もなく権力者の存在だけが組織全体の上に覆いかぶさることになる。
結局、誰も身動きできなくなる。
そのうえ裏表を巧妙に使い分け、あるときは話は聞きますと言い、あるときは人の発言を遮ってしまう。
これが最もよくない権力構造であり組織の在り方である。
どうして日本がこういう不明確で権力志向の国になったのか。
これは恐らく責任と権限の使い方を誤ったということだろう。
責任を果たす意識が大きく欠けてしまい、それを権限ではなくより強い権力で隠してしまう、あるいは詭弁を弄して筋道の流れを変えてしまおうと力で押し切ろうとする。
権力を持った人間にしかわからない独特の世界に浸ってしまうともうそこから抜け出せない。
トップは常に潔く、足元だけに目を向けるのではなく、組織の進むべき未来に目を向け心から明快な夢を語らなければならない。
組織に属する人はその行いを見て自分たちのあるべき姿を意識することができる。

 

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2600㎞の旅

今月21日から5日間かけて東北の地を周ってきた。
7年前に東日本大震災が起きたときこの地に来た。
どうしても直接大変な現場の現実を見ておくべきだと思って車でやってきた。
その後、復興工事があちこちで進められ、それなりに状況は変化している。
それでも実際に改めて現場を見ると微妙な心理状態になる。
除染物を入れた黒い大きな袋が大量にそのまま置かれているところも、人の住んでいない民家もあるけれど、広大な土地にソーラーパネルが敷き詰められているところも、風力発電のプロペラがいくつも回っているところもある。
原発はやめてこういう再生可能発電にしてしまえばいいのではないかと思いもした。
広い広い土地がどんどん整地され、水田に戻っているところもあれば、まだそのまま更地になっているところも多い。
それでも、海との境界線には延々と堤防が築かれている。
大きな津波被害に見舞われるとこうして堤防を築こうという気持ちは理解できないわけではないが、どうしてもすっきりした気持ちになれない。
遠く離れて比較的自然災害の少ない岡山に住んでいるので、個人的にあれこれ言うべきではないのだろうが、大きく景観が変わってしまったのは確かである。
しかし、元に戻すことは不可能であることを考えると、できるだけ安全で住みよい街づくりをすることになるのは当然だろう。
過去を捨ててしまったり忘れ去ってしまうことはできないが、形はどうであれ前に向いていくしかない。
この厳しさの中で新しい何かが生まれてくるといいなと、あまりにも人ごとのように思ってしまうことに少しばかり心苦しさを感じるが、2600kmを黙々と走りながら我々の地でも我々の会社でも、いつ突然の変化や衝撃が訪れるかわからないと考えた。
7年前の衝撃を今回訪れることで一応の区切りが私の心の中ではできたと思う。
その地の人たちは様々な思いを胸にしまい、あるいは重く背負いながらこれからも前に向かって歩まなければならない。
往きは日本海側を走ったが帰り道は東京のど真ん中を通った。
私のように田舎に住んでいるものにとっては日本海側はまだしも東京の高速道路はあまりにも緊張せざるを得ない。
初めて走る東京の高速道路は、どこをどう走ったのか全くよく分からず、ただナビの指示に従ってハンドルを握りしめ標識を見落とさないよう最大限の注意を払ってそれなりのスピードも出して走った。
東名高速に出たときは本当にやれやれだった。
もう二度と車で東京には行きたくないと思った。
仮にではあるが、東京に同じような津波が押し寄せたときは果してこの地は如何なることになるのだろうか・・・。
(今回訪れた町は、双葉町、浪江町、南相馬市、名取市、仙台市、松島、女川、南三陸町、気仙沼市、陸前高田市、大船渡市)
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睡蓮・・

今朝5時過ぎには蕾状態の睡蓮。7時過ぎにはきれいに開花。これから当分楽しめます。
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昨日ぐらいから一斉に花開いた遅咲きのサツキ。
サツキは3月の終わりごろから順番に咲いていてこのサツキが最終。
春から夏は沢山の花が咲いて心がさわやかになる。
睡蓮の水瓶には3匹のメダカが住んでいる。
メダカも少しだけ気を使って水の管理などしてやればとても長生きする。
毎朝覗いては元気さ加減を確認している。
この睡蓮もほとんど手入れらしいことはしないが記憶いないぐらい長く花を咲かしている。

 

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靄がかかりっぱなし

このところの日本は特に清廉潔白であって欲しいと思う世界があまりにももやもやしている。
確かに世の中、何事も清廉潔白なきれいごとだけではことはうまくいかないのは理解はできるのだが、どうもあまりにもそのレベルの低さに、ついには愛想が尽きてしまいそう。
本人たちはそれなりに真剣にやっているのだろうが冷静に俯瞰してみてみると、どう見ても何もかも見え透いてしまっているようで頭かくして尻隠さずのごとくだ。
真摯な心が失われていて自己中心の思いが優先されすぎているとしか見えない。
こういうことを誤魔化しの中で延々続けていると、何が常識なのか正義なのか分からなくなり、それは当事者たちの世界だけでなく、我々一般の国民の判断基準の在り方そのものが全く分からなくなる。
何とかしてほしい、あるいはもういい加減にしてほしいと叫びたくなる。
先の見えない状態は早々に靄や霧を吹きはらって、少なくとも視界は良好な状態にもどしてほしいものだ。
嘘はつくほど嘘を呼び、どんどん上塗りせざるを得なくなる。
もうすでにその中心にいる人でさえ何が真実で何が偽りなのかわからなくなっているのではなかろうか。
長くそんな状態の中にいると正常な感覚がどんどん麻痺してしまう。
その状態は考えてみると非常に恐ろしい状態かもしれない。
これから、もしかすると想定外の出来事が起きるのではないだろうか。
ちょっと話が飛躍しすぎたかもわからないが、国の中心が揺れ動いているようでは国全体を幸せにうまくまとめることはできないだろう。
何とかこの暗たんたる雰囲気をすっきりさせてほしいと切に願う。
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デニムの未来

さまざまな経過を辿ってきたデニムの世界。
デニムイコールジーンズという関連性のなかで、素材と製品の相互作用で成長してきた世界。
木材と家屋というバランスに似ている。
昔の日本では家屋イコール木材という関連性で林業は成長してきた。
その後、一次産業から二次産業へ。
そして今、三次産業から四次産業へと時代が変化している。
デニムイコールジーンズという世界も、過去の家屋イコール木材という世界と同じように新しい材料の影響を受けざるを得ない。
自然の材料の良さを生かした、家屋以外の可能性を追求せざるを得なくなる。
かといって、木材の使用量が減っていけばいくほど日本の自然の環境も変化せざるを得なくなる。
山が荒れるということはそれだけ自然環境が乱れてくるこということだ。
海と森林に囲まれた日本のこれからについてしっかり考えなければならないが、デニムの世界では果たしてどうなのか。
デニムの原料である綿花はもうすでに日本国内ではほとんど生産されていない。
いろんな意味で日本産の綿花をいくらかは栽培しているが使用量に影響を与えるレベルでは全くない。
もとより海外からその原料は輸入しているわけで、メイドインジャパンとは言ってもそのほとんどは紡績、染色、製織、縫製の製品加工の部分が主である。
これからどうなるのかと考えると、デニムの将来はジーンズ以外の用途を考える必要がどうしても出てくるのだろう。
現在すでに様々な業界とデニム業界のコラボ企画が意識されているようだが、それらのデニムの使用量は残念ながら決して多くはない。
もともとデニムは大量生産することで存在感を示してきたわけで、わずかな量の生産では本来の価値は無くなっている。
木材もしっかり使ってしっかり植えてを繰り返すことで山が生きてくるわけで、伐採して燃料にするだけではいい木は育たない。
これからは守っていくべき世界と変化していくべき世界とに分かれていく。
守っていきたい日本の着物の世界があることはよくわかっているが、果たしでどれだけの人が普段着物を着ているかといえばそれはわずかでしかないだろう。
物の価値とは見る人、使う人の数によって変化してくるが、最終的には使う人の数によって実質的な価値は決まってくる。
リーバイス、リー、ラングラー、エドウィン、ビッグジョン、ボブソン・・といった大手ブランドでほとんどを占めていた時代から、ほとんどよくわからないブランドが数限りなく存在する時代へと大きく変化している。
すでに消費者が好きなように自分流で楽しむ時代になっている。
主導権は完全にメーカーから消費者に移っている。
デニムの良さは決して失われないだろうし、着物の美しさや素晴らしさも決して失われないだろうが、それらは消費者次第でこれから先も大きく変わっていく。
新しい価値とはその時代の変化とともに変化していく。
これから先、デニムの世界がどのように変化していくのかよくわからないが、デニムイコールジーンズとしての量産量販の時代ではすでになくなっている。
さて、これからどのような新しい変化がわれわれの前に現れるのだろうか。
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