信念

信念とはどんなものか・・・。
その人の生きていくうえでの指針になるものだろう。
良いとか悪いとか、価値があるとかないとかの判断は人によってさまざまである。
そのさまざまな中に一つのまとまった、変わりようのない考え方、指針があるとすればそれが信念ともいえよう。
しかしながら信念という言葉は単純であるが、その意味あいは大きな個人差がある。
よく似た考え方をしている人が私の周りにもいるように思うのだが、なぜかこの歳に至るまで考え方が近いと思えた人はほとんどいないように思う。
それだけ私の考え方が他の人たちと違っているということなのだろうか。
私自身は単純でかなり明快な考え方をしていると思っているが、どうもそうではないらしくかなりの頻度で、あの人はちょっと変わっていると言われる。
私は、私が変わっているのではなくあなたたちが変わっているのだろうと思っている。
全く同じ顔をした人がいないように、考え方もそれなりに違うのは当然なのだろう。
今年一年は、これほど信念とは何なのかを考えた年もなかったように思う。
特に政治家の信念のなさはひどいものだと感じた。
だれにどう言われようが自分の考えはこうなのだというものをしっかり持っているというより、周りの状況がはたしてどうなのかばかりに気を取られていて泰然自若とした安心感はほとんど感じられない。
信念とは自分自身の中にあるものであるが、周りの人たちにもそれが伝わるようでなければならない。
来年は戌年で私は年男である。
「インブルー」とは何かについて改めて考えを整理してみようと思っている。
それが周りのみんなに自然に伝わっていくようにならなければならないだろう。
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日本がおかしくなる・・・

前回の東京オリンピックの始まるころは、何が何でも前に向いて頑張ろうという雰囲気が強かったように思う。
しかし、それは我々もまだ中学生の時代で、世の中の仕組みも何もほとんど分からなかった。
それでも純粋に世の中がどんどん前に向いて動いているという実感があった。
あの素晴らしいオリンピックのポスターはみんなを引き付けるだけの力があった。
半世紀以上たって、また東京オリンピックがやってくる。
そのときと今では社会環境は大きく違う。
今ではオリンピックで何かが変わるという期待感はなく、ただ大きなイベントというぐらいにしか思えない。
社会の仕組みも大きく変わり、日本全体で何かをしなければという共通の目標を失い、ただ権力や名誉、そして金という非常に現実的打算的なことが卑近の目標になっている。
日本人は親切で優しくて正直な国民だというイメージが他の国にはあるようだが、どうもその時代はとっくに過ぎ去ってしまったのではないかと思う。
何かと人が小粒になってしまった現代においては一強と言われるような状況があちこちにでき、限られた人が権力を握ってしまう傾向が強くなっている。
常に控えめで堅実に周りのことを考えて行動するなどという表現は今や死語に近いのか。
今では日和見的で自分の損得に終始し、言い訳の多い人たちが中枢に集まってしまっている。
ごまかし、ねつ造、強圧行動、暴言、ハラスメントなど、どう考えても品格や厳格さを感じさせる行動、発言はほとんど見られなくなってしまった。
こういうことをしている間に世界の動きは日本に合わせてくれるわけではなく、どんどん新しいい方向へ動いている。
今や原子力発電は終わりを告げようとしているにもかかわらず、再稼働をどんどん進めている。
その上、石炭による火力発電所建設を海外に輸出しようとして脱炭素がテーマである世界から大きな非難を受けている。
それもこのプロゼクトは総理大臣自らがトップセールスをしている。
従来の石炭による火力発電に比べ15%も二酸化炭素の排出量を削減できるということがうたい文句らしい。
世界はほとんど再生可能エネルギーによる発電に移行しているというこの時期に・・・。
単に笑われるというより何を目指しているのかと疑われてしまっている。
国家予算も、いくらでも理由を付けで大きくしていき、財源が足りないところは増税で・・・とワンパターン化してしまって、人間の創意工夫する能力を全く発揮しようともしない。
無駄に使う補助金など止めればいいが省庁の都合ありきで延々続けている。
その結果、それをまことしやかな理由を付けて取り込み補助金成金まで出てくる始末だ。
メイドイン・ジャパンという表現も一つの呪文のように何かといえば一斉に唱えてはいるが、それを売りにするよりは本当にいいものを作っていくことが大事なはずなのだが、どうもそれがごまかしの入り口になってしまっている。
今のように絶対に安心できるという信用を得ていたはずの業界で品質のごまかしが普通に行われているということになってしまうと、今度はすべてがそういう目で見られるという危険性をはらんでいる。
そろそろ妙な御旗を利用するのではなく純粋に未来を見つめ人類の幸せを考える日本になってほしい。
そこには真摯さと真剣さが絶対に必要で、誰かが中途半端な権限を持って事に当たるという不幸な独裁的状況はなくしないといけない。
政界も財界も相撲界も・・・。
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人が逝く

ある日、人が逝ってしまう。
とても悲しいことであり、驚くことであり、心が痛むことである。
そのときが来たらどうしよう。
その先はどうなるどうすればいい。
残される人たちには不安ばかりが残る。
それでも、その人はとても安らかで、美しく、これほど穏やかな顔は見たことがないというほど幸せに満ちた顔をしていた。
死ぬことの恐怖は微塵にも感じさせない。
緩やかに静かに消えるように息することを止めて逝った。
九十九歳の生きざまは、一言で語れるような簡単なものではないが、その一つ一つが意味を持ち輝いていたのだと語りかけてくる。
たくさんの人の前に出ることなど想像だにせず、己の日々の世界の中で十二分に活躍してきたのだ。
人にはそれぞれの世界がある。
周りから見ればたわもない世界の中に、外からは見えない数え切れないほどの引き出しをもっていたのだろう。
これほど幸せな顔を見せられるともう何も言えない。
お母さん!                                                               あなたの素晴らしい九十九年を快く見送ります・・・・。
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ぎりぎりセーフ

今の社会の中では、何をやってもどこかにラインが引かれてあって、これ以上先はダメだとかこれ以下はダメだとか判断される。
試験を受ければ合格ラインがあり、勝負事には必ず勝ち負けがわずかの差でも判断される。
電車に乗ろうとすれば、発車時刻があって数秒の差でもドアは閉まってしまう。
われわれの子供のころは、バスも電車も車掌がいて少々の時間は待ってくれることがよくあった。
お金を忘れて買い物に行っても、近くの店であれば、いいよこの次でと言って商品を渡してくれる。
これはデジタルな今の時代と違うところで、いたるところにアナログ感そのものが漂っていた。
そんな線引きのはっきりした厳しい現代においても、要は引かれたラインの中であればセーフということである。
電車に10分前に乗ってる人と、10秒前に乗った人はいくらぎりぎりであっても同時刻に同じ目的地に着くことができる。
学校の入学試験でも、ぎりぎりで試験に受かれば、それからの努力次第で順位はいかようにでも変わってくる。
この線引きは、とりあえずこうしなければけじめがつかないということであるが、たまたま運のいい人も                           その逆にたまたま運が悪かったという人も一律に分けしてしまう。
常に上手く線の内側に入れる人と、なぜかわからないけれど外れてしまう人がいる。
私の人生はどう見ても、楽々セーフの世界ではなく常にぎりぎりのところでやってきたように思う。
それがわかっていながら、それならもう少し事前に努力をすればいいと思うがそれがなかなかできない。
よって常にぎりぎりのところをうろうろすることになる。
負け惜しみではないが、このぎりぎりというところにはさまざまな経験ができるメリットがある。
間に合うか間に合わないか、合格するかしないか・・・常にそういう不安にさらされているわけだから、もしダメな時は次にどうしようかというこを考える訓練ができる。
反対にいつも上手くいっている人は、それだけの努力をしているのだろうが、残念ながらその際のところの不安さや悔しさをほとんど経験しないことになり、ダメだったときの様々な対策ができにくくなるかもしれない。
必要以上に苦労することはもちろんないのだが、私の持論としては、人は失敗することや苦労することからしか学べないと思っている。
これからの混沌とした時代の中では、果たして何がどうなっていくのかはっきりとは見通せない。
それでもぎりぎりアウトにならないように、必ずどうにかセーフになるように常日頃から考えを巡らせ視野を広げていかなければならないと思う。
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変革期

私が本格的にテキスタイルの仕事を始めてからすでに36年が過ぎた。
36年といえば一世代である。
振り返ってみると、最初のころは単に生地のスワッチを並べて、いかがでしょうかという感じの商売だった。
その後、これでは得意先も判断のしようがないではないかということで、私は、次のシーズン用のカラーサンプルを独自に、ベーシック、カジュアル、トレンドと三通りぐらいに分けて作成した。
当時はまだ製品洗いが十分普及していなかったので、サンプル生地で筒縫いした洗い見本を作成して得意先に提案した。
今で考えればごく当たり前のことなのだが、その当時では非常に斬新なプレゼンテーションだった。
それが私のテキスタイルの商売への入り口だった。
それから新しい生地で独自のデザインによる製品サンプルを作成し、より具体的に判断しやすいプレゼンテーションをしていった。
それでも、それから40年近くたてば、ほとんどの状況は大きく様変わりした。
その過渡期では、それまでのやり方や価値観がどうしても捨てられず次のステップになかなか移行できない。                                                              いくらかの人たちが新しい流れを作ろうと画策するけれど、なかなかそれは強い流れに進展していかない。
今ではそれを取り巻くIT関係の環境が大きく変わって商品そのものより流通、販売のありようが大きく変わってしまった。
ここでまた改めてそれまでにない悩みが出現してくることになる。
次にやるべきことは一体何なのか・・・。
これまでのやり方をしっかり見直して改めて力をそこに投入しようと考える人。
いやこのままのやり方では取り残されてしまうだろうから何とか新しい何かを考え出さなければならないと悩む人。
それぞれに決して間違いではないと思う。
間違いではないところが悩ましいところで、5年10年先を明確に見渡すことはできない。
もしかすると価値観どころか仕組みそのものが根底から大きく変わってしまうかもしれない。
それでも我々は次世代に仕事を引き継いでいかなければならないということである。
30年40年の時間は確かにそれまでの流れを良くも悪くも大きく変えてしまう。
そうであるならば、今はまだよく見えないその流れに沿っていくことを考えるべきであろう。
そこに、われわれ流がどれだけ表現できるかというところだ。
大変といえば大変だがごく自然の流れだともいえる。
頑張っていればどうにかなってきた時代から、むやみやたらに頑張ってもどうにもならない時代になってきた。
そんな環境は、あれこれ考え悩んで次の流れを創り出すことに興味と意義を感じる若者が集まれば、むしろ反対に本当に楽しくなりそうである。
インブルースタッフブログに、スタッフ募集という記事が掲載されているが、船は確かに乗り込むものだが今やそれでは船は動かず、そこに乗り込む若者が自ら船そのものを動かす気概が必要になる。
覚悟さえすればこれからの時代はそれなりに面白く楽しめるのではないだろうか。
インブルー船をこれから動かせるのは新しいスタッフだろう・・・・🎶。
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因果応報

本来仏教の考え方なのだろうが、いつの世の中でも人の行いはその人の未来に良くも悪くも影響するということだろう。
今現在の状況ばかりに目が行ってしまうのはほとんど誰でもだろう。                              その今現在は自分のそれまでの行いが影響しているとはあまり考えない。
それでも何か良くないことが身の回りに起きると、何か身の回りにそれをもたらす悪いことがあるのではないか、そう考えることはよくあることだ。
どんな出来事が起きたとしても、それらのことは自分の行いにいよってもたらされたと常に自分を戒めることができれば必ずそのうち気運はいい方向に変わっていく。
それでも世の中にはいいことは自分の力がもたらし、悪いことは周りがもたらすと考え易く実際にそう思って行動する人が多い。
良くても悪くてもそれらはすべて自分の歩んできた足跡であると考えれば、どんなに後悔の念を持ったとしても終わったことはすでに過去のことでしかなくなっている。
どうやっても取り返しはつかない。
だから常にそれ以上の注意と努力をしなければならない。
雑念なくそれができれば決して悪い報いはやってこない。
もしそうではないならば、どこかにそうではない心が潜んでいるからであると気づかなければならない。
売り上げが思うようにできないのはお客が来ないからではなく、お客が来てくれるための努力がまだまだ足りないと考えるべきである。
天気が悪いから、とても寒いから・・・などとよく言い訳を思いつくが、そういう口上を考えるのであればどうすれば天気に関係なく店にお客がやってきてくれるのかをしっかり考えるべきであろう。
真摯に考え努力している姿を見ていれば人は何かを感じ、どこかに心惹かれる新たな何かが生まれてくる。
そんなことを繰り返すことで決して悪いことがむやみに起こることにはならなくなる。
悪いことも行きにくい先と行きやすい先がきっとあるはず。
昔話の「金の斧、銀の斧」「こぶとり爺さん」などのようにただその瞬間正直で素直であればいいというものではなく、常日頃どうしているのかである。
因果応報は本当に単純な人間の世界に存在する真理のだと思う。
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チェック

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インブルーデニムスーツがスタートして以来デニムのレベルは大きく進歩してきた。
それまでのデニムは当然だがジーンズ用として生産されてきた。
本来デニムは量産低コストを前提として仕組みが作られてきたために、どうしても細かいところまで注意を向けられなかった。
製織上はある程度のクオリティーであればよかった。
それに現在のように製品は縫製後様々なヴィンテージ加工を施すようになるといくらかのキズもそれなりにカバーできる。
ところがデニムスーツということになると素材はデニムだが製品はあくまでスーツである。
インブルーが現在に至るまで様々な経験を経て、高品質の製品でお客の信頼にこ応えるられるようになるには小さなことでもしっかりチェックすることが欠かせなかった。
小さなキズであっても、もしそれがスーツの襟にあれば決して納得できるいいスーツとは言えない。
従来の感覚のデニムではインブルースーツには合わない。
キズの発生しやすい条件下で生産するデニム、それだから価格の関係もありそのキズを手間をかけて修整していくだけの時間と経費をかけにくい。
それは作業服であるジーンズ用であることから一般的にはそれほど気にすることではなく実際にそれでよかった。
ただ、インブルースーツの目指すデニムはどうしてもキズは避けなければならない。
現在のインブルーの品質に見合うデニムがどうにか生産可能になった背景には、機屋へ私たちの思いを真剣に伝えることで理解して協力していただけるようになったことがある。
それでもいくらかのキズは発生する。
この写真の私の仕事は、お客の注文に対して必要メーターのデニムを一着分ずつカットして工場に届けるためにデニムのチェックとその修整作業をしているところだ。
一着分の中に全くキズのないときは本当にうれしくなるが、もしキズが現れるとそれだけ必要量が増えていくだけでなく残念ながら心が沈む。
それでも一生懸命に努力して生産してくれた機屋のことを思うと何とかして修整しようと思う。
デニムの製織もスーツの縫製もそれぞれに神経を使って協力していただいている工場がある限り私たちは自信をもってお客に最高のスーツを届けることができる。
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只より高いものはなし

無償化という言葉が魅力的に感じるか、何かがおかしいのではないかと感じるか。
どんな物にも必ずそれなりのコストがかかる。
会社経営をしていればわかることだが、[只]と規定できる物は何もない。
そこに存在するだけでもコストがかかっている。
それなのになぜか国中が無償化という表現に惑わされている。
無償も只も全く意味は同じ。
どこかにその財源がなくては無償にはできないのだが、個人で考えれば人に物やお金を只で上げる場合にはそれに見合う何かの見返りがあるはず。
そうでなければただ単に損するだけでしかない。
借金してまで人に只で物を上げようとする人はまずいないだろう。
じゃあ、物や金をもらう側はどうか。
新聞の折り込み広告は宣伝の効果を考えてその経費を売り上げでカバーしようと考えている。
店の増改築や新規出店はそれまでの利益を吐き出すのかそれとも商品の販売金額に上乗せするのか、間違いなく売り上げが増えるのか、いずれもそこには算盤勘定がしっかりなければならない。
考えてみると、只で手に入れたものにはほとんどそれに対する思い入れがないためいとも簡単に捨て去ってしまう。
人は高い金を支払って努力して手に入れるからこそ大切に長く使おうとする。
学校は誰しも行かなければならないところではあるが、誰しもが向学志向であるわけではない。
そういう人たちに無理やり只だから学校に行けと言ってもこれはとんだありがた迷惑でしかないかもしれない。
要は教育というのは物の価値や必要性をしっかり理解し身に付けることを同時に教えなくては上手く成り立たない。
私の年代でも何年間も学校通いをしても全く勉強に興味がわかなかった友人たちは大勢いる。
そしてまた、そのほとんどは英語が喋れるわけでもない。
それでも、その彼らがなにもできないかといえば、全くそんなことはなく立派に仕事をこなしている。
今でいう妙なフリータ的な人や引きこもりになる人はまずいない。
人はそのことに興味をもち価値を感じるとどんな努力でもできるようになる。
問題なのは無償にすることで人は真剣になったり努力したりできるようになるのではないということ。
一度経験した「只の味」は残念ながら多くの人たちの良くない経験になってしまう。
人は苦労して、努力して、失敗して、思うようにいかない悔しさを感じて初めて強くなれる。
それ以外に本当の強さは身につかない。
人から只で与えられたもので成功することもほとんどないだろう。
それだけその後の苦労が大きくなるだけで、最初から普通に苦労し努力することが最も人間にとっては自然で確実に力がつくことになる。
一般受けしそうな無償化などということは大きな声でアピールすることではない。
これからの日本は今以上に思考力のある強い人たちを育てていかなければ、人の言ういいことだけを聞く人たちが増えてしまい、そうなれば日本の将来はどんどん暗くなる。
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京都

昨日は家内に誘われて、というより強引に連れられて京都国立博物館の国宝展を観に行った。
国宝の展覧会だからぜひとも行きましょうと以前から誘われていたけれど、私はこういう人の多いところは特に苦手としているので、娘夫婦と一緒に行ったらいいじゃないかと言って断っていた。
ところが娘夫婦も都合が悪く家内一人で行かせることは私としてもちょっと心苦しくて、前日に行くことに決定。
案の定、非常にたくさんの人でそれを見ただけで参ってしまった。
出品されてる物はそれぞれに価値ある、またなかなかお目にかかれない貴重な国宝なので見る価値はあるとは思う。
それでも二時間近くかかって一応何とか見終わったが、こういうときに必ず私は腰を痛めてしまう。
歩くことは大丈夫なのだが、歩かずじっと立っていたり、その歩みが遅い場合はほとんど必ず腰が痛くなる。
そんなこともあってどうしてもこういう場所が苦手なのだ。
それでも熱心な人たちがたくさんいることに感心した。
そのあと腰の回復ためにも歩いたほうがいいので、せっかくだからうわさに聞いていた紅葉のきれいな東福寺まで行くことに。
30分近く歩いて行くと、これまた人の数が一挙に増えて、この人たちがみんな東福寺へ行くのかと思うとまた腰がひけてしまった。
国宝展に負けない人の数。
それでも確かに紅葉は話に聞いただけのことはある。
そのほとんどは 「もみじ」 なので種類がまとまっていることも美しさのポイントだと思う。
この人の数を見ていると、本当にみんな熱心だと感心する。
根っからの田舎人間には人の少ないところでのんびり紅葉を鑑賞することができればその方が性に合う。
それでも夕食は京都に住んでいる娘夫婦と可愛い盛りの孫と一緒に美味しいイタリア料理を素晴らしいホテルでごちそうになり結局は大満足で帰宅。
(注)国宝展も紅葉見物もスーツ姿の人は一人もいなかった。なぜか国宝を拝見するのだからスーツで行かなきゃと思ったのはほとんど意味のない私の勝手な思い込みでした・・・。

 

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今年も残り少なくなりました

一年というのは長いのか短いのかわからないがこの時期になると間違いなく一年は短いなあと感じる。
歳をとるとなおさら短く感じるようになる。
えっ、この間忘年会したばかりじゃないか…。
というのは大げさだがそれに近い感覚である。
振り返ってみるとナッシュとしては今年の忘年会で27回めの忘年会ということになる。
毎年いろんなことがあって、いろんな思いで忘年会をしてきた。
すごくたくさんの人たちに参加してもらったこともあるが、わずかの人数だったこともある。
それでもこうして会社が継続していることは本当にありがたいことだ。
その都度そのときの社員とさまざまな思いを共有してきた。
しかし状況は必ずしもいい方向とは言えず、年々厳しさに直面してきた。
とくにアパレル、ジーンズメーカー向けのテキスタイルビジネスはこの10年で大きく変化した。
これまでの企画中心のナッシュ流はなかなか受け入れられなくなってきた。
それはアパレル、メーカーの営業力、企画力にもよるが現実そのものがリスクを避ける傾向がどんどん強くなり独自の企画を組み立てられなくなった。
誰かがリスクしている素材を利用しようということになり、独自の素材開発が以前より極端に少なくなった。
当然市場の様相も大きく変わり、市場に流通する商品の量は増えていると思うが、消費者に刺激を与える新しい感覚の商品は少なくなっている。
ナッシュのテキスタイルビジネスも、ここら辺りで一旦立ち止まって市場の状況をしっかり眺めてみることも必要だろう。
今の業界はあまりにも儲けることにこだわり過ぎてドキドキするような冒険は少ないとみる。
これは日本の消費者マインドが年々低下していることにも関係していると思う。
背景には生活への不安感が漠然とではあるが覆いかぶさっていることがあるようだ。
一億総活躍などと抽象的なお題目より具体的に何をどうするのかをはっきりさせて明快な政策をアピールしてほしいものだ。
総理の肝いりの獣医学を学ぼうとする人を増やすか増やさないかは、いくら大きな予算を使っても消費者の消費意欲には何も貢献しない。
その上、消費税が10パーセントになればなおさら消費者は心が冷えてくる。
来年こそはと気持ちを切り替えようとしても現実の厳しさばかりが気になってしまう。
今年の事は思いっきり忘れて来年をいい年にしようという本来の忘年会もどこかに不安を抱えながらの瞬間逃避になってしまっては益々大変。
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