松井秀喜やっと登場

本日やっと登場しました。

二ヶ月遅れのメジャー10年目がスタート。

少々遅れようがかまわない。

あの無骨な顔を見ることができる。

そして彼はなぜかやってくれる。

今期初登場で2打席目ではあるが先制のツーランホーマー。

これからまたどんなドラマが展開するかわからないがイチローの完璧なスタイルに対してどこか鈍な感じのある決してスマートではない松井が両極端にいて私は一人でも盛り上がる。

遠い昔の長嶋と王のバランスにどこか似ていると思っている。

 

かたやダルビッシュが頑張っている。                                                    松坂とは違った考え方を持っている彼のメジャーでの取り組み方には益々応援したくなるらしさがある。

これでやっと今年のメジャーリーグがスタートした。

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あめ玉

いつも行くうどん屋。                                                        近いのでうどんを食べるときはほとんどその店に行く。

肉どんが私の定番でそれ以外を注文することはほとんどない。                                  それに稲荷寿司。                                                                    最近はばら寿司を頼むこともある。                                                      うどんというのは毎日はちょっと厳しいかもしれないがあまり飽きがこない。             このうどん屋は結構東京あたりで知る人は知る。                                        アパレル関係の人が児島に来るとよく立ち寄るうどん屋である。

が今日言いたいのはそんなことではなくこの店での楽しみが他にあるということ。

レジの横に置いてあるあめ玉。                                                   もともと子供のために置いてあるのだと思うが私はお金を払ったあとこのあめ玉をもらう。                   私のが一つと、だいたい一緒に行く家内のが一つ。                             今日ももらった。

只でもらうことにいい大人としては若干の心苦しさを感じながらもついつい手が出る。

あめ玉というのは子供のころの思い出を誰しも持っていると思う。                 こんな大きなあめ玉であれば喉に詰まらせることもあっただろう。

お菓子屋に寄って一個一円ぐらいで買っていた。                         今はどれぐらいするのか分からない。

 

人間の心理としては何かちょっとだけ得したような気分になる。 (ちょっと子供っぽいか・・・・。)                                 今まだこの口の中にこの大きなあめ玉は溶けてしまわずに存在している。

 

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質量不変の法則

いつもながらの私流の法則だが最近特にこの法則が正しいことを感じる。     

特に今回は言葉に関しての法則。                                                   

今では伝達方法がたくさんできたので様々な言葉が使われるようになった。                           

特にインターネットの普及はそれを加速させた。                                   

携帯電話には省略された言葉が縦横に飛び交い古い人間には何を言っているのかさっぱりわからない。                                                   

昔なら鹿児島と青森の人が会話をしたら一体どうなるのか・・・というほど同じ日本の中でも地域によって言葉が大きく違っていた。                                          

それは当然で言葉はその地域、集団の中で生まれ育っていくから離れた地域では大いに異なっていたというのはよくわかる。

現代はそういう地方ごとの言葉違いはそれなりに存在するけれどテレビ、ラジオなど標準語の普及でほとんどの人が聞いて理解することができるようになった。                                            

それはそれでいいことだと思う。                                        

問題なのはあまり言葉が自由にかつ簡単に作られるようになったためにそれで分からない言葉がたくさんできたこと。                                                          

日本の歴史の中でみれば確かに言葉は年月を経て変化している。                              

しかし最近の変化はあまりにも激しいのではないか。

新しい言葉が生まれてくることはそれは時代の変化に対応するためには必要なこと。                   

ただいくら新しい言葉を作り出したとしても十分に言いたい内容が相手に伝わらなければ困ったことである。

表現が巧みになればなるほど結局何を言っているのかわからなくなることもある。                      

若者の場合は良くはないがまあそれも仕方ないかなと思う。                                      

しっかりして欲しいのは肝心の大人たちだ。                                       

今の政治家の特にトップに立つ人たちの表現にはその兆候が著しい。                      

「不退転の覚悟で・・・。」「政治生命をかけて・・・・。」意味はよくわかる。                                

しかしその言葉はどういう場合に発してどういう覚悟でどういう責任を取らなければならないのかがはっきりしない。                                                          

だからいくら強い口調でも、いくら厳しい意味を持った言葉であっても相手に同じような厳しさが伝わらない。                                                  

「国民のために」という言葉はよく使われるがこれは言葉は格好いいがどこまで国民のためを思っているのかが全く伝わってこない。

格好よい響きや語彙の多さは一見、花畑のようできれいではあるが相手を説得できる力はもたないかも知れない。

かつて「不言実行」という言葉がもてはやされた。                                         

そして今は「有言実行」だと思う。                                                          

しかしその有言実行も的確な実行があってこそ初めて相手に伝わるし説得することができる。

言葉の数がどれほど増えていこうが一番大事なのは 「よしわかったそれでやろう」 

と言って適切な時間内に確実に実行してその成果を示すことである。                                    

言葉数は少なくても実行する中身が大きくて我々のためになることであるのがいい。                                    

これはトップに立つ人ほど大切なことである。                                 

言葉数が多くて実行ができないでは言葉の持つ意味や力が全く生きない。

「ドジョウ」だとか「ノーサイド」だとか格好いい言葉はどうでもいい。                   

それは雰囲気言葉でしかない。                                                        

中身が薄いほど言葉の数が増える。                                                          

なぜなら自分の言葉の意味も説明しなければならなくなるから。                      

結果うまくいかなければまたその上に理由をうまく説明しなければならない。

実質的な重さを持つ言葉は本当に本気である人間しか発することはできない。

簡単に説明できる表現が増えれば増えるほど考えや想いが十分に伝わらなくなるのは質量不変の法則そのもののように思う。

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日食

20日の朝は日本国中日食一色だった。

見たい時に見れるというものではなく数十年あるいは数百年に一度しか見れないものであれば誰もが必死になるのは当然だ。

前日に我家でもこの日食の話になり日食を見るためのメガネをどう手に入れるかということになった。                                                                        こういう場合はだいたいその役目は私に回ってくる。                                          コンビニにあるかな?  ホームセンターかな?  眼鏡屋かな?・・・・。                                    結局は具体的に何もアクションを起こさず夕方に娘にホームセンターに電話であるかないか聞いてもらった。                                                                     当然だけれどもうすでに売り切れましたという返事。

考えてみればこのグラスは前日までに売れなければいくら安くしようが売れないわけだから少なめに仕入れるのは常識だと思う。

しかし売り切れで手に入らないでは家内は許してはくれない。

最後の手段しかない。

ガラスに “すす” を付けるまさに原始的な方法だがこれが最も手っ取り早くお金もかからない。

子供の頃、部分日食を見るためにみんなでスモークドガラスを作ったことがあったのでそれを思い出した。

真黒けで向こうが何も見えないぐらいでさすが太陽の光は強い。                                 リングの一部が欠けた状態がくっきり見えた。

ガラスの破片で感激の日食を十分に楽しみました。

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唐辛子

子供のころ誰しも一度はこの唐辛子では大変な目にあっていると思う。

間違えて、あるいは分かっていてだまされて口に入れてしまって口が火を吹くような思いをしている。

唐辛子は辛いぞとは親からもしっかり教えられていたが子供同士の勢いで口に入れてしまう。

少々水を飲んでも何の助けにもならない。結局ある程度の時間わめきながら耐えるしかない。

昨日は一日遅れで我が娘が母の日のプレゼントで夕食をごちそうしてくれた。

高層ビルの23階で眺めは素晴らしくいい雰囲気だった。

ところがそのコース料理のなかに唐辛子をそのまま上に載せた料理が出できた。

ウエイトレスは唐辛子は食べないでくださいと言ったらしい。

どうも私はそれをはっきり聞いていなかったようでいきなり口に入れてしまった。

そこそこ名の通った中華料理のレストランなので美味しい料理には違いないがその一口でとんでもないことになってしまった。

ホー、ホー、ホーツ・・・・。

どうにもならない。

ついには舌がヒリヒリし始めた。

二人からそんなもの食べるからだと冷ややかに言われてしまった。

それだけなら私のミスということで済むことなのだが知っていて唐辛子をよけていた二人もまぎれ込んだ唐辛子の小切れを食べたのだろう辛い辛いで大変なことになった。

これはどう見てもこういう現象が起こることは予想される。                                           だから見栄えがどうであれ前もって料理の上からは取り去っておくべきではないかと思う。                                                                                              間違えて口に入れる可能性は非常に高い。

それは客が悪いのかその可能性があることを知りながら料理の上にのせておくシェフが悪いのか・・・・・。

娘の プレゼント を堪能しながら “辛い!!” と “何故!!” も久しぶりに堪能することになってしまった。

よくわからない涙がでたのであります・・・・。

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同窓会

昨日中学校の同窓会があった。

オリンピックの年に開かれる。

幹事の方たちの想いが強くてこれまでしっかり開催されてきた。

今回は残念ながら先生方はほとんど亡くなられているので生徒のみの会になった。

いくらかの人はまだ現役で仕事をしている。当然私もその現役の一人である。

出席者が40人程度だったけれどもうすでに亡くなってしまった人たちが30人。

最初にみんなで冥福を祈って黙祷から始まることになった。

私も自分のスピーチのなかであの仲間にはできるだけ入らないようにしようということを話した。

確かに一人一人と欠けて行くのは仕方ないがこの4年の間に4人もいなくなってしまった。

ちょっと淋しい。

 

反対に元気で今盛んに山登りをしているという女性もいた。

彼女曰く 「私は今最高に調子いい。100歳までは生きたいと思うの・・・。」 と元気のいいい話。

そこで私 「100歳はすごいな。これから30年以上も本当にしっかり歩いていられる? もしかしたら1年後にはベットに寝ているかもしれないよ。 寝込んだままで30年はちょっとしんどいのではない・・・?」 ちょっと意地悪ではあったけれどそう言ってしまった。                                                                彼女は真剣に 「それはその可能性もあるかもしれない・・・・。」 としごく納得したようだった。

で結局は日々しっかり生きようというところに落ち着いた。

よく出席している人の顔はすぐわかるが今回も初めて参加した人もいて40年近く会っていないので顔の中に昔の面影を見つけ出すまでかなりの時間がかかった人もいた。

いずれにしてもこういう会は非常に楽しい。                                            しっかり取り仕切ってくれる仲間がいるのは心強い。

 

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自信がないという自信

何事も自信をもってやれとはよく言われること。                                                 

自信の無さはそのまま顔や態度に出てしまう。                                               

確かにその通りで本当に自信のない人の雰囲気は決まっている。                                  

落ち着いてない、おどおどしている、下を向きがちである・・・。                                 

かと言って自信のある人の雰囲気は果たしてどんなものなんだろう。                                     

目が輝いている?                                                                      どっしり構えている?                                                               落ち着いてしゃべる?                                                       どんなに自信がある人でも実際にはそんなに自信はないのではないか・・・と思う。                                                  

ただ全く自信のない人と自信があるように見えるひとの違いは確かにある。                              

それは恐らく今に至るまでの努力のしかたに関わっていると思う。                                         

努力する人はいくら努力してももうこれでいいとは思わない。                                     

だからそこにいくらか不安要素があって自信のなさになっている。                                    

もとより大した努力をしていない人はどこが足りないのか十分ではないのかなどよくわからないから不安になりようがないということだ。

世の中に完璧ということがない限り誰しもそれなりの不安を感じながらだからこそ努力している。

よく自信満々という表現を聞くことがある。                                                自信に満ちた表情ということも聞く。

しかしこれらのほとんどはさまざまな戦術としての表情だろう。

もし本当に自信があるという人がいるとしたらその人は崇高なる誤解をしている人ではないかと思っている。

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